第2回 2007.jan.11. 金子信造
技の動作の過程も述べようと思ったが、とても時間がないので、ここでは技を支える基底の理を述べる.技の実際は稽古の中でする。
1.始. 礼(正面、 互いに)
2.準備体操
3.実技
@ 片手取小手返し(内旋)手鏡で
第1回で「軒の雫」や「浪の下」を独演だけで、皆で実習しなかったのは、このように単純な技は、己の動きが相手を崩してしまう実感がつかみにくい、つまり力まずに力を出すといわれても、まだ力まずに使うことが出来ないからである。
手鏡 手鏡からの小手返しは比較的に誰でも出来る方法で気結び・合気の実感を得安い。
一重身で三角に入り身し、相手に手首を捕らせ、気結び(気結びや合気は常に一貫したテーマとして各回で順次深めてゆく。ここでは結び=産・霊、相手を含め宇宙と一つになる状態を生むことだから、ぶつかる、抑える、引き出すなどはない)し、合気する(相手と同化し、吾が動きと相手の動きが、吾が動きに一体となる、相手の重心を吾が丹田で包みとると、「喜び勇んでついてくる―開祖」相手が反撃の仕様のないままに「固める」、「極める」状態を生む。
分かりやすい、即ち体感しやすい技で合気を実感し、その感覚を他の動きでも体感するキッカケをまず作る。これがないと技は動き方の物まねで、合気をかけ得る確信(自分で「あっ、これが合気だ」と感じる感覚)が持てない。
脱力 あらゆる技芸が、腕や肩の力を抜いて使うことを教える。書道の運筆、左官の鏝使い、大工の釘打ち皆そうである。これは腕の筋肉は肘関節に伸筋と屈筋が拮抗してついており、伸筋が力を出そうとするときに屈筋が働くとブレーキになりスムーズに働かないからである。そして屈筋を働かせるときは力み感覚があるが、伸筋にはそれに対応する感覚がない、つまり伸ばしさえすればよいだけである。「折れない手」(気の研究会会長、元合気会指導部長が多数の著書で紹介している。)も「透明な力」(大東流、佐川師範)もそれをさしている。呼吸力というもそれである。このように力を出す感覚さえなく力が出る、必要なのは、これの使い方、即ち動作を正確にすることであり、意識して正確に動くことの大切さを中国拳法では「用意不用力」(意を用いて力を用いず)と教えている。
合気でのいわゆる呼吸力だが、体力に応じたもの以上のものは出ない。神秘的な力の発揮法があるようなことを説くものもあるが私はそれはないと考える。
体力の維持向上のトレーニングは、私は私流のことをやっているが、ともにやる気のある人がいれば時間外に研究しあうのも良いと思う。
重力移動法 立ち技は運足の上に成り立っている。
運足 A.前進 前脚の膝を抜く、逆ハの字平行前進、重力前方移動。
B.後退 後脚の膝を抜く、尻餅をつく感じから前脚後退でバランスする。
C.転身 沈身、浮身。
前進で踵が上がり足底を後ろに見せるのは足拇指球で蹴っているからで、この動きでは溜をつくり瞬時の動きが出来ない。
重力移動歩行法の練習
平地でこの感覚を掴むことは難しいので、(生まれてこの方、誰もが蹴って歩く方法に習熟しきっていて急に変えられなくなっている)
ア、階段を下りる 足底を垂直に離地、着地(薄氷を踏むが如し)だが、能の「運び」で行う。即ち膝の脱力で体重を前方移動とともに爪先をあげ、すり足で前へ移動し1段 重力につられて降りる。これを左右交互にして降りる。
イ、下り坂を下りる 前脚の脱力で前に体重が移動するのにつれて身が前にでるとき後脚が前に振り出され、つま先を上げ、すり足で前に着地し前脚となり、この繰り返しで前進、左右2本の平行線を足は逆ハの字(競技剣道のように並行足前進ではない)でたどる。
同じ動作を、平地で、上り坂で、さらに上り階段で動けるようにする。
対抗力 力は大地からの対抗力を足から丹田、背、そして腕を通して出される。力の起点は足底にあるのである。従って力を出すにはスムーズに重力移動で歩くコツを掴むことである。
人は通常、姿勢反射で意識しないでバランスしている。姿勢反射はかなり強力な働きで酔っ払いが倒れそうで、なかなか倒れなかったりするが、大地からの対抗力があるからである。躓き転ぶとき、階段を踏み外して転倒など己のバランスをとれない状態では、対抗力が失せている。この状態に相手を至らせることを崩すという。力で引き崩すや力で押さえつけることを崩す(競技柔道)と言うこともあるが、屈筋力で引くとか抑えるのと、崩しは明確に違う、体力の強いものを押さえつけることは、はなはだ困難である。
武術の体移動 体の移動・変更は筋力ですれば、まず動く準備としての溜をつくって、それから足で蹴って動く、瞬間に間に合わないのである。そればかりか体幹各部が足、腰、肩、頭と各々別に動いて、つまり例えば一刀両断の太刀を頭はかわしても肩を、肩をかわせても胴を切られるということになる。古武道ではこれを重力移動で全身一斉に一瞬にはずしたのである。開祖が昭和のはじめ頃研究していた新陰流(江戸柳生・柳生厳周とその後継者下条小三郎と稽古したとある)の「風帆の位」、「浮沈の位」(やがて詳述する)は重力移動法である。これが新陰流の極意「合打」を果たす条件なのである。現在では新陰流を名乗る道場でもこの伝が失われつつあり剣道流の並行足立ち、蹴り進みが横行していると嘆かれている。
居合では特に座技は、殆ど「趺居」の重力移動法の伝は失われ、膝と爪先で体を支え、居着きを生み、自分が刀を抜いたときには相手の刀はわが身に存分に入っており、居合わせることなど出来なくなっている。
合気道では体動は「六法に開き」、「腰の働きは両足にあり。」(開祖著「武道」)と重力移動法を教えている。(細部は機会ある毎に述べる)この動き以外に合気の技はないのである。
人間の直立二足歩行の進化の方向は、脚は重力移動へ、腕は脱力操作へと向かっていると考えられる。
A 片手取り一教(内旋)
◎気結び―腕を差し伸ばして、受けに手首を捕らせる。腕は脱力し、押しも引きもしない
捕らせた位置に、預けている感じ。手の5指はパッと開く。
結び=産・霊
神=霊=火・水(矛盾、対立、差異ある、もの・ことの相互作用の複合関係の総体としての宇宙の構造をなす神とつながりを産む→和)
また 掬・霊 (相手を自分の中に取り込んでしまう。開祖述、「武産合気」)
人=霊=霊・止(掬は飲み込むこと。止は場所、霊止で神のとどまる所の意)
力まないが、ダランとしているのではない、力を出している。差し伸ばすことで伸
展力が出ている。気を出すとも言う。
技―力は出すもので入れるものではない。
身体―気が充満し、発している。
◎ 合気―取は取られている手を手刀にして、受けの手首に内側から当て、後脚を受けの正中線前方に踏み出し、前脚はそれと同時に吾が後方に踏む。それに合わせて手刀を吾が正中線上で切り下ろすと、受けの腕は内旋し、受けの体は前方下に崩れる。
◎ 足どり―1回目では技は全て受けの腕の外側に、三角に入っていたが、この場合は受けの腕の内側に三角に入っているのである。この内側に入るについては、「間違って内側に入ってしまったら、すぐ外に出る」としている合気道の書があるが、内に入るのが間違いだと言うのは、合気していないからである。崩れていない相手の内側に入れば、相手の正中線前にわが側面をさらし、吾が正中線は外へ外れ、吾からは攻撃も防御もできないが、相手には取の防御なしに一方的に攻撃の出来る体勢である。しかし合気し、受けの重心が前方下にいっていることは、体勢が逆転しているのである。取にとっては近く、受けには遠い間合いにもなっている、これについては西尾師範「許す武道―合気道」(合気ニュース.p148〜p155)に詳しい説明がある。
掴んできた受けの腕を取が引くという動きをする者がいる。吾が前に引き寄せるの
は屈筋使用であり、力み操作である。これはヴィデオで開祖の動きを、相手の前に踏み込んでの切り下げを(足は前進で後回りではない、あくまで前に出ているのだが)後退して引き寄せていると見てしまっているからである。(見る目がない)「まして押さば引けというような直線運動ではない。」(奥村師範「合気道」日東書院)今の場合は安定した中心軸で、受けのふところに円く乗り込んでいるのである。「スミキリ」(開祖)(もともとは不安定な独楽が高速回転すると、止まっているかに見える、軸を中心とした安定した状態になること。)である。
今回のように内側でも、前回のように外側でも、また後ろでもスミキリでなければならない。この働きがあれば「日向の小門の阿波岐原の」禊としての合気の技はおのずから生まれ「技などは戯れごとに過ぎない」(開祖)ことになる。
今回はこれ以上記述する時間がないので、一教の固めまでの記述以下を略し、稽古予定のみ記す。
今後も術理について時間の許す限り記述するつもりであるが、感想・意見を歓迎する。
B 片手取り四方投げ(内旋)
C 〃 小手返し(内旋)
D 〃 入身投げ(内旋)
3.礼(正面、 互いに) 了