5回   2007.APRIL.5.

金子信造

 我々が手にする「古事記」(文典として手に入る例えば岩波文庫版)では天地(あめつち)初発(はじめ)の時、成りませる神の名は、(あめ)()中主(なかぬし)の神であるが、開祖は宇宙の根源である一元の大神が現れ、天の御中主の神もこの一元から生まれたとするのである。そして合気道を行ずる者は高天原で天の御中主として魂のひれぶりをする者なのである。これは宇宙が、もっと根源的な「フトマニ古事記」の道理として現れでたものだからである(「合気神髄」)。「古事記」を国語学的に解釈することと、開祖があらわし、考えていたことは、この懸隔がある。これを開祖の言葉に従って解す努力を続けてきているが、70歳を超えた私に生あるうちになし終えそうにない。そこでとりあえず,むしろ神道(大本の教え)、言霊学にこだわらず私の理解としての宇宙の事象と人間の在りようを述べておき、それを一先ず開祖の示そうとした問題を解く手がかりとして、今後の稽古、即ち開祖の言う神ならい、禊する際、随時そこでの問題解明の理解に資したいと思う。当然意見,異見があるはずで率直な批判を願いたい。以下多くの論証なしでは理解できないことを、ここで必要なことにだけ的を絞って、かなり乱暴な議論だと思われるだろうが、詳しくは分子生物学,発生生物学の成果を参照して貰うとして、必要最小限の事柄だけ述べる。

細胞       38億年の昔、海で生命が生まれた。それは外界と自己とを区別する膜に包まれ,エネルギー変換系、単純な代謝系を備えていた。単細胞でも常に外界情報をキャッチして行動を起こすという基本原理を備えている。単細胞でも栄養となる化学物質には近づき(誘引刺激)危険な、あるいは嫌いな(?)化学物質から遠ざかる(忌避刺激)。ときに嗜好性の変化まで観察されている。ここで好き嫌いの感情や心まであるとは言わぬにしても、生命にはその初めから行為として走化性(選択的に集まる,または離れる)がある。また膜で覆われた内部現象として生命は細胞内部に認められるものであり、外部空間に瀰漫していることはない。

         どのような生物も細胞で出来ている。だから細胞は生命の最小単位であるといわれる。始源の生物とされる原核細胞が出現してから17億年経過して真核細胞が出現する、これは体内にミトコンドリアをもち、酸素呼吸をする、これによって細胞は大型化できるようになり、約10億年前に多細胞生物が出現する。

脊椎動物     動物とは、生物の中で前進運動の出来るものであると規定できる。水中での前進運動は魚類によって遊泳と言う形式で完成された。その後、両生類や爬虫類があらわれ、また鳥類など、飛翔というすぐれた前進運動を達成した動物も出現した。その中で二足直立歩行という前進運動様式を採用する人間が出現した。人間は脊椎動物である。

         海の中でただプカプカ漂っているクラゲのようなものは口と肛門がいっしょになっているが、海中を泳ぎ回るようになった原索動物(脊椎動物の前身)はつねに頭を前にして進む、そのとき入水孔()からエサを取り込みながら進み,消化・代謝してゆくが、頭のほうに位置していた腸などの臓器が慣性力により、後ろへいってしまい、体も次第に長くなっていった。その後の脊椎動物ではさらに口と肛門は離れる。重力による慣性力で腸管が後ろへ延びると同時に、腸が分化して新しい臓器ができてくる。下等脊椎動物では、神経管は脊椎の背側に前後に一様の太さで伸びていたものが、進化につれて、口の周辺部に光りを感受する目などを特化し、つまり視覚,臭覚、味覚などの分化した感覚器官が形成されるにつれて頭端部が膨れ、神経管の前端はやがて脳になる。

         動物には脳のないものが沢山いる。頭部にほんのチョッピリ神経節をもっているだけのミミズのようなものもいる。脊椎動物でも進化の過程では脳なしで生きてきたのである。人間になっても腸などは、脳と脊髄(中枢神経)から独立に働いている。脳や脊髄から、いくつかの神経が腸に達して影響を及ぼしている事実はあるが、これらの神経の連絡が絶たれても、腸は正確に働いてくれ、これを「腸の自動能」という。(腸について、詳しくは藤田恒夫著「腸は考える」岩波新書。この書は学問と言うものがどのようするものかも解き明かし大変面白い)腸に限らず人間の体は脳と独立な機能にも満ちたものである。人間の行動が脳だけではない広範な生命活動の現れであることは、脳が人体の器官の一部として形成された、その生い立ちからしても当然であろう。(この項次回に続く)

実技演習

@     正面打ち一教

表      互いに相半身で正対し、取りが前腕を手刀とし振りかぶる、受けは取の手刀から正面を護るため自分も手刀を正中線に沿って振り上げる。取りは受けの腕が上がりきる前に、もし受けの手刀が振り下ろされても当たらない正面の攻撃の線上を外して、その外側に入り身しながら、受けの振りかぶる動きを助長して、受けの腕を、取りの前腕は手刀を受けの手首に、後腕は親指を受けの肘の曲池に差し込んで小指,薬指で掴み、一歩踏み出し、受けの肘を受けの顔面にぶつかけ、そのまま吾が正中線上を切り下げ、受けの肘を吾が丹田下に納め取る。受けの手首に当てていた手刀を握りに変え後ろ腰骨前に掴む。この時、受けの腕の肘から先の延長線が受けの腹を貫くように受けの腕を槍として突きの構えをとる、従って受けの手首は受けの肘より低くなることはない。取りは受けに近いほうの足で受けの脾腹を蹴破るように前進、受けを突き伏せる。ついでその腕を受けの体側に90度以上頭上に位置するように固め取る。

    裏      相半身で正対し、受けは手刀で切り込む、取りは正面の攻撃線をはずして、手刀を振りかぶり受けの腕の外側に転身しつつ、両腕で手刀を袈裟に切り下ろし、前腕は手刀で受けの手首を制し、後腕は受けの肘を親指は曲池に差込み、小指,薬指で掴み、受けの腕を刀として切り下ろす。従って受けの手首がその肘より低くなることはない。固めは表と同じ。

   正面打ちの結びは刀法そのものである。

   気結び    「剣の申し合わせ」というのは、私はヴィデオで開祖が吉祥丸二代道主が真剣で切りにゆくのを捌くのを一度見ているばかりだが、その呼吸が気結びであろう。すなわち真っ向上段からの切り下ろしに、六法に開いて、手を差し伸べて入り身すれば、重心は奪われて、後は開祖の思いどおりの動きに追随するばかりである。私は昭和27年ごろ金杉橋の良武館で小西康裕先生に神道自然流を当時学んでおったが、先生のお供で開祖にお目にかかったのが開祖とのご縁の始めである。但し合気道に入門はかなり後日で葛飾合気会(清野師範)である。(清野先生は木太刀をよくなさり、また当時江戸川合気会で山口清吾先生も木太刀の稽古をつけて下さった。当時はその他でも太刀、杖の稽古が出来た。昭和40年代の頃である)、合気道は剣の理合が活きており、体得のために松竹梅の剣あるいは気結びの太刀、一の太刀から五の太刀の組太刀をやがてはここでも稽古したい。その前に素振りが出来る必要がある。葛飾で正規の稽古時間後、退場まで仲間うちだけで31の杖、13の杖、剣の素振り等の稽古をしているが参加者は歓迎する。

A     正面打ち二教

B     正面打ち三教

C     正面打ち入り身投げ

D     正面打ち回転投げ

 

 

 

 

                                                                                                                                      

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