少年老い易く学成りがたし

「少年老い易く学成りがたし」




スリッパの音をパタパタと響かせ、つき当たりにある格子の引き戸を開けると、そこから先は、別世界がある。

時を忘れたかのような勇者の雄叫び、研ぎ澄まされた一瞬に宙を飛ぶ、猛者の舞。

稽古場には、独特な空気がみなぎり、時がタイムスリップしたかのようである。

それは、私のこれまでの日常の経験からは想像出来ない、なんとも形容しがたい風景でもあった。

当初はこの雰囲気になかなかなじめなかったものだが、二年の歳月の中で、今は、ようやく日常的なものとして捉えることができるようになった。

 また、馴染んできたといえば、夏の蒸しかえるような暑さや、冬の凍えそうな寒さの中での稽古にも、やっと慣れてきた。だが、こんな時は、今でも心が揺れる。特にウイークデイーの稽古日などは、空腹も手伝って、次々と煩悩が渦巻く。帰宅途中の電車の中で葛藤が始まる。こんなことを書くと、熟練者には笑われるかもしれないが、正直な話である。きっと、誰もが経験して来たことであろうし、今でもその戦いは続いている人もいるのではなかろうか。私のような初心者は、この葛藤に如何に勝つかが、求道心へ繋がる第一歩なのである。


思えば、ここに来た当初は、戸惑いの連続であった。武道が未経験である私は、帯の締め方から教わらなければならなかったし、最も基本である受身などは、まったく出来なかった。

すべて一からの出発である。人間、50歳を超えて一から物事を始めるということは、本人はもちろん周りの人間も大変である。教える方も、教わる方も必死であるが、教わる方がなかなか思うように上達しないのである。覚えは遅いし、体力も衰え始めている。また、若い頃のような無心さが無い。どこか、自分を捨てきれていないのだ。合気道という武道の土俵上では、職業や人生経験などは、まったく無関係であるということは、重々心得ているのだが、どこか気づかないところで、普段の自分が存在してしまうのかもしれない。

それでも、まだ、二年というわずかな期間でしかないが、未熟ながらもこうして続けてこられたのは、私なりの意地ともゆうべきものがあるからに他ならない。同時期に入部した者が、何らかの理由で、何人も道場を去っていった。だが、「五十の手習い」を承知で始めた私にとって途中での退散は許されない。

それは、意地という言葉の裏にある自分自身の戦いがあるからなのだ。ちょっと大げさに言い換えれば、生き甲斐とでも言うべきものを見いだすための戦いとでも言えようか。

だから、合気道に関わったきっかけを、自らに問うてみても「趣味」と、一言でかたずけしまうほど単純なものではない。つまり、人は、いろいろな価値観を持って生きている。ある人は、宗教を信じ、それを基本原理として生き甲斐を見つけていくだろうし、ある人は、ボランティアを通して自らの存在意義を見つけていく。人それぞれに生きていくための価値を見つけて生きようとする。それがスポーツであろうと、武道であろうとかまわないのではないか。決して、哲学や宗教といった人間の根源に迫る課題をテーマとしたものばかりが与えてくれるのではないと思う。自分にとって、日々の生活を支えてくれる精神的支柱として大切に出来るものであれば、十分満たしてくれるのである。 
 
ささやかながら、私も、何らかの生き甲斐を見つけるべく生きて来た。

だから、もし、私にとって今後、合気道という武道との関わりを、単なる趣味としてではない、生き甲斐の一つとして捉えようとしているのであれば、これを選択した以上、少々の難題があっても続けて行くことこそが生き甲斐につながって行くのであろうし、やがて、それを確信できるようになる時が来るだろうと考えているからである。

 
人間、誰しもが逃れられないもの一つに「老い」がある。私にもその足音が、ヒタヒタ近づいて来ている。

50才を迎える時は、逃れられないものとは知りつつ、かつて、経験ない程の嫌悪感にさいなまれた。

そして、まだ少し先とはいえ、憎んで止まない、還暦という、老後世界の入り口が薄ぼんやりながら見えてきた。

どのように対処していけばよいのか、今はまだ、想像もつかない。

人生の達観者から見れば、ほんのささいな問題かもしれないが、私のような凡人には、計り知れない苦悩が横たわっているのだ。

そんな時、唯一の救いは生き甲斐であろう。今後の私にとって、合気道を通して得たもの、培われたものは大きな財産となるであろうし、何よりも生き甲斐という羅針盤を、しかも、人生最後の羅針盤を与えたれてくれたことに感謝する時が必ずややって来る。そしてそれは、すぐそこにそびえ立つ魔者をも打ちのめす智恵を与えてくれるかもしれない。 

だから、ふつつかながら、道場の門をくぐる日々を続けているのである。

とはいえ、武道の修練は、孤独である。すべて、自分の責任で考え、行動していかねばならぬ。稽古をするのも、休むのも自分次第であり、よほどのことがない限り、本人の自覚に任せられる。

 私などは、ちょっとした気の緩みが、鈍足と言われても仕方ないほどの進歩の遅さに、さらに輪をかけてしまう恐れさえある。

 「もう少し若ければ」と嘆いてみても現状は変わらない。焦りと、ある種の諦めが交差する中、時は前へ前へと容赦なく進んで行く。 

「少年老い易く学成りがたし」先人の名訓である。

悔い多き日々、万感の思いがこみ上げる。


                    2004年2月26日    岩瀬康夫





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